2007年10月08日

『は』

瀬谷歴史かるた『は』


鎌倉道を敗走する上杉禅秀 (二ツ橋~三ツ境~瀬谷)

上杉氏憲入道禅秀は管領職を掌中にしようとして足利持仲(もちなか)と謀り、江戸・豊島両氏の連合軍と戦った。
合戦は応永23年夏より四区4年1月までつづいたが、時に利なく中丸山より鎌倉道を敗走した。
参画した足利・上杉両氏の領袖は鎌倉雪ノ下においてことごとく自害した。
(出典 瀬谷歴史かるた)


藤沢の遊行寺境内には、「藤沢敵味方供養塔」という塔があるそうだ。
遊行第十四世太空上人の造立と推定され、禅秀の乱で亡くなった総ての人と動物までも浄土に往生することを願って建てたものということだ。
もともとは上杉一族の中での対立ということだから、亡くなってしまえば敵も味方もないということだろうが、近隣諸国も靖国問題でそれくらいの鷹揚さを持ってくれたらいいのにね。


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