2007年10月19日

黒川蝋燭能

11月3日(土)、長屋門公園にて
開園15周年記念で『黒川蝋燭能』が公演されます。
開場午後5時、開演午後6時、公演時間約2時間です。

黒川蝋燭能は国指定の重要無形民族文化財で
蝋燭の灯りだけの世界に、幽玄の美が繰り広げられます。

 能 :敦盛 大瓶猩々
 狂言:附子

A席(6000円)にまだ若干の余裕があるそうなので、
ご希望の方は長屋門公園(045-364-7072)まで
お問合せください。

黒川蝋燭能チラシ


  


Posted by オルカ at 17:56Comments(56)

2007年10月13日

『ほ』

瀬谷歴史かるた『ほ』


宝蔵寺の御朱印駕籠 (瀬谷町2325=橋戸)

秀恵比丘尼が承暦年間に不動堂を建てたことによりこの寺の歴史は始まる。
応永3年(1396年)に古義真言宗藤沢感応院末寺に加えられて宝蔵寺となった。
御朱印地として、寺領一町二反九畝、境内六反を徳川幕府から受けた。
この御朱印状書換えの時は、徳川幕府の三葉葵紋付の駕籠に収めて、
江戸へと中原道を往き来したと伝えられている。



この時代も契約とか、更新とかあってたいへんだったんだね。
そういえば今月は車の免許の書換え。
違反講習を受けなくてはなりませぬ。  


Posted by オルカ at 15:35Comments(0)瀬谷歴史かるた

2007年10月09日

『に』

瀬谷歴史かるた『に』


新田勢の鎌倉攻め (瀬谷町5930付近一帯=細谷戸)

元弘3年5月17日(1333年)上州生品(いくしな)明神(群馬県)で旗揚げした新田左中将義貞は破竹の勢いで北条軍を撃破して、北関東の兵力をまとめて武蔵野を一気に南下した。
世野ヶ原(今の瀬谷)で鎌倉攻めの陣揃えをして攻撃をしかけ、21日に北条勢はついに滅亡した。
太平記には、新田軍の勢力のその数20万7千とあるが、多分に誇張であり、その威力をしめしたものであろう。
(出典 瀬谷歴史かるた)


新田義貞と言えば、稲村ヶ崎で黄金の太刀を海中に投じると潮がひき、鎌倉に攻め入ることが出来たという伝説まで出来た武人。
上記の日付はちょっと間違い(17日から21日まで4日しかない)かと思われるが、いずれにしてもごく短期間で鎌倉幕府を滅亡に至らしめるには、天の時、地の利がないとだめだろうね。  


Posted by オルカ at 18:13Comments(0)瀬谷歴史かるた

2007年10月08日

『は』

瀬谷歴史かるた『は』


鎌倉道を敗走する上杉禅秀 (二ツ橋~三ツ境~瀬谷)

上杉氏憲入道禅秀は管領職を掌中にしようとして足利持仲(もちなか)と謀り、江戸・豊島両氏の連合軍と戦った。
合戦は応永23年夏より四区4年1月までつづいたが、時に利なく中丸山より鎌倉道を敗走した。
参画した足利・上杉両氏の領袖は鎌倉雪ノ下においてことごとく自害した。
(出典 瀬谷歴史かるた)


藤沢の遊行寺境内には、「藤沢敵味方供養塔」という塔があるそうだ。
遊行第十四世太空上人の造立と推定され、禅秀の乱で亡くなった総ての人と動物までも浄土に往生することを願って建てたものということだ。
もともとは上杉一族の中での対立ということだから、亡くなってしまえば敵も味方もないということだろうが、近隣諸国も靖国問題でそれくらいの鷹揚さを持ってくれたらいいのにね。  


Posted by オルカ at 13:57Comments(0)瀬谷歴史かるた

2007年10月07日

『ろ』

瀬谷歴史かるた『ろ』


牢場坂の五輪塔(ろうばさか の ごりんとう)

牢場坂とか馬場屋敷の地名が残っているが、ここにつづいている鎌倉道の道端に板碑や五輪塔があって、今も竹やぶの中に静かにまつられている。その中には鎌倉時代末期の嘉元三年(1305年)などの文字が読み取れる。
後年この付近一帯は深見城主山田伊賀守入道経光(つねみつ)が所領し、地名からもそのころの名残を知ることができる。
(出典 瀬谷歴史かるた)




現地確認はしていないが、資料によると五輪塔は原型をとどめていないようだ。
鎌倉道は、鎌倉開幕後に往還のために使われた道で、瀬谷区内を通る道は上之道と呼ばれ、源頼朝や日蓮、新田義貞らも通ったとされる。
牢場坂の近辺は境川が鎌倉道側にせり出し、西の大和側は丘になってその後ろは平地が広がっていて陣を張り易く、鎌倉道を警戒するにはうってつけのため、山田伊賀守入道経光が城を構えたと推察されている。  


Posted by オルカ at 17:56Comments(2)瀬谷歴史かるた

2007年10月06日

『い』

『源流の里 三ツ境物語』の立ち上げを記念して、忙しいのに3本目のブログ立ち上げ face08
『Monotalk』は『物語』のおやじギャグと笑う無かれ。
内容は極めてアカデミック・・・のつもり face02
しばらくは昭和55年発行の瀬谷歴史かるたを題材に進めます。

で、かるたですので一発目はもちろん、いろはの『い』

瀬谷歴史かるた『い』


神奈川道の六本松 (三ツ境第一踏切付近)

三ツ境5番地と二ツ橋町215番地の境に一根六幹の松の大木があった。半原厚木方面から横浜につながるシルクロードとしての神奈川道は海老名耕地をわたり、国分の坂を登った人々に『六本松がみえたぞ、あれが武相境だ、今ひと踏張りしてくれや』と道中はげみの目印とされていた。今は道路拡幅につづく相鉄線敷設で伐り倒されてしまった。
(出典 瀬谷歴史かるた)




そういえば、自分の子供の頃はそのような松があったような、なかったような。
半年に一度くらいで見る、昔の夢の中に二ツ橋方面から相鉄沿いを歩いてくると、三ツ境駅のすぐ手前で松はあった感じがする。
ただ国分の坂というと、海老名の手前の切り通しになっているところ。
直線距離にして約9km。
切り通しの上だったら高いから、南台の上を突き抜ければ見えたかもしれないが、そんなに大きな松だったかな。
1回伐採されたあとの、ミニチュアだったのかも face01
どなたか写真をもっていたら連絡ください。  


Posted by オルカ at 12:27Comments(0)瀬谷歴史かるた